認知症と意志の所在

 物盗られ妄想を発症した祖母は、近所の同年代のサロン的な社交場に安らぎを求めているようだ。祖母から見て実娘、私の母にあたる人から生活における様々な点を正すよう言われ続けたのが嫌だったのだろうか。足の悪い祖父は祖母は思うがまま過ごせばいいと思い放置するばかりだが、冷蔵庫では腐った野菜が悪臭を放つばかり。まだ私とは普通にやり取りする様子だが、私までガミガミと言う立場だと思われてしまえば、それも長続きはしないと思われる。尿もれパッドをゴミ箱に直接放り込み、悪臭を生じるまま放置する様子を伺えば生活を指摘したくなる気持ちも十分に分かるが、相手は認知機能を残った老人。何を言っても次の瞬間には忘れている。

 いつ訪問しても、祖父母はどちらも私に毎度同じような疑問を投げかけてくる。答えても、5分後には同じ質問をしてくる。デジャヴを繰り返すような有様から、祖父母は訪問してきた人間に応じて決まった反応をしてるだけなんじゃないかと思ってしまったりする。実際、そんなところがないわけではないだろう。しかし、以前話したことを全く覚えていないかというとそうではなく、私が3週間前に虫垂炎で手術入院したことを問うてきたりはする。一体何が記憶に残るかどうかを左右しているのだろう。

 叱りつける行為は認知症を進行させてしまうというのが通説である。また家事をせず頭を使わなくなっても症状は悪化すると言われる。認知性は、頭を使わず、謙虚さを失った人間がその醜態を露わにしてしまう病だと思ってしまうばかりだ。しかもその進行を食い止めるには本人にストレスをかけないよう、周りが負担を負わなくてはならない。これは認知症になる前の本人にとって、望ましいことなんだろうか。認知症になった人間の意志は、本人が願うことは一体何なんだろうか。

 周りの人間としてできることと言えば、たまに家の様子を伺い、生活に支障が出ないよう少し身の回りの整理をしてやって帰ることくらい。90を超えるまで生き、孫の成長を見られるのは幸福なのかもしれないが、世話を焼く人間の苦労を認知せずにのうのうと生きるのは、もし自分であれば望まない傲慢な生き方だ。もっとも、本人が望んでそうなったわけではなく、自然の摂理としては仕方のないことなのだとも思う。無駄なプライドを持たず、常に頭を使って考える癖のある人間はボケないという説を、自分の一生を使って示していきたいところでもある。