「多様性」という甘え

「多様性」を認めなければだめだという人が最近増えてきた、というより、社会全体がそれを大事にしようと声高に宣うようになった。 「男なら男らしく」「女は女らしく」という性差と人物像の結びつけに始まり、様々な人間の在り方について見直しが求められている。この途中にあって、「多様性」の中には不必要なものが入り混じっているように思う。複雑な分析が必要だが、一見して特に、後者が多い印象だ。

「私は私、あなたはあなた」という個人主義的考え方は現代社会に広く浸透しているが、これは一見様々な自由を認める万能の文句に見えて、実は周囲に適応する努力を怠るための便利な謳い文句にもなってしまっている。「私はこういう人間です」と主張するのは個人の権利だし、自分の個性を認めてもらえない社会は不健全だが「私はこういう人間だから周りにいる人は皆私の良い点悪い点を全て個性として認めてください」と宣うのは間違っている。自分の在り方を適切に分析した上で相手にも分かるように説明し、悪い点や指摘された点は改善しようとする努力を怠らない。これが目指すべき人間の在り方なのではないかと思う。

もちろん、不得意なことや苦手なことの全てを克服するのは誰にとっても難しいため、完全に達成できないこともある。しかしその点を指摘されたからと言ってこれを「自分の個性だから」と言い張るのはいささか「個性」の意味を履き違えている気がする。できないことは誰にでもあるが、「多様性」や「個性」を言い訳にしてそれを克服しようとする努力を怠るのは間違っている。どこが「甘え」のラインになるのか、それは内面を突き詰めた自分自身が一番よく分かっているはずである。