「多様性」という甘え

「多様性」を認めなければだめだという人が最近増えてきた、というより、社会全体がそれを大事にしようと声高に宣うようになった。 「男なら男らしく」「女は女らしく」という性差と人物像の結びつけに始まり、様々な人間の在り方について見直しが求められている。この途中にあって、「多様性」の中には不必要なものが入り混じっているように思う。複雑な分析が必要だが、一見して特に、後者が多い印象だ。

「私は私、あなたはあなた」という個人主義的考え方は現代社会に広く浸透しているが、これは一見様々な自由を認める万能の文句に見えて、実は周囲に適応する努力を怠るための便利な謳い文句にもなってしまっている。「私はこういう人間です」と主張するのは個人の権利だし、自分の個性を認めてもらえない社会は不健全だが「私はこういう人間だから周りにいる人は皆私の良い点悪い点を全て個性として認めてください」と宣うのは間違っている。自分の在り方を適切に分析した上で相手にも分かるように説明し、悪い点や指摘された点は改善しようとする努力を怠らない。これが目指すべき人間の在り方なのではないかと思う。

もちろん、不得意なことや苦手なことの全てを克服するのは誰にとっても難しいため、完全に達成できないこともある。しかしその点を指摘されたからと言ってこれを「自分の個性だから」と言い張るのはいささか「個性」の意味を履き違えている気がする。できないことは誰にでもあるが、「多様性」や「個性」を言い訳にしてそれを克服しようとする努力を怠るのは間違っている。どこが「甘え」のラインになるのか、それは内面を突き詰めた自分自身が一番よく分かっているはずである。

認知症と意志の所在

 物盗られ妄想を発症した祖母は、近所の同年代のサロン的な社交場に安らぎを求めているようだ。祖母から見て実娘、私の母にあたる人から生活における様々な点を正すよう言われ続けたのが嫌だったのだろうか。足の悪い祖父は祖母は思うがまま過ごせばいいと思い放置するばかりだが、冷蔵庫では腐った野菜が悪臭を放つばかり。まだ私とは普通にやり取りする様子だが、私までガミガミと言う立場だと思われてしまえば、それも長続きはしないと思われる。尿もれパッドをゴミ箱に直接放り込み、悪臭を生じるまま放置する様子を伺えば生活を指摘したくなる気持ちも十分に分かるが、相手は認知機能を残った老人。何を言っても次の瞬間には忘れている。

 いつ訪問しても、祖父母はどちらも私に毎度同じような疑問を投げかけてくる。答えても、5分後には同じ質問をしてくる。デジャヴを繰り返すような有様から、祖父母は訪問してきた人間に応じて決まった反応をしてるだけなんじゃないかと思ってしまったりする。実際、そんなところがないわけではないだろう。しかし、以前話したことを全く覚えていないかというとそうではなく、私が3週間前に虫垂炎で手術入院したことを問うてきたりはする。一体何が記憶に残るかどうかを左右しているのだろう。

 叱りつける行為は認知症を進行させてしまうというのが通説である。また家事をせず頭を使わなくなっても症状は悪化すると言われる。認知性は、頭を使わず、謙虚さを失った人間がその醜態を露わにしてしまう病だと思ってしまうばかりだ。しかもその進行を食い止めるには本人にストレスをかけないよう、周りが負担を負わなくてはならない。これは認知症になる前の本人にとって、望ましいことなんだろうか。認知症になった人間の意志は、本人が願うことは一体何なんだろうか。

 周りの人間としてできることと言えば、たまに家の様子を伺い、生活に支障が出ないよう少し身の回りの整理をしてやって帰ることくらい。90を超えるまで生き、孫の成長を見られるのは幸福なのかもしれないが、世話を焼く人間の苦労を認知せずにのうのうと生きるのは、もし自分であれば望まない傲慢な生き方だ。もっとも、本人が望んでそうなったわけではなく、自然の摂理としては仕方のないことなのだとも思う。無駄なプライドを持たず、常に頭を使って考える癖のある人間はボケないという説を、自分の一生を使って示していきたいところでもある。

損をする衆愚

 「人のため」に何か物事を起こそうとして頑張る時、そこに人がなかなかついてこない。内容も、人集めも、粘りも、自分の全てをできる限りなげうっても、力を貸してくれる人がいない。でもここで責任を感じる必要はない。救ってあげようとしている対象に自分の手が届かなくなっているのは周りの人間の理解が足りないからだと思えば、可哀想なのは理想を実現できない自分ではなく、善意有る人間が多く存在すれば助けられるはずだった人間の方だ。

 どれだけ能力があっても、それを活かそうとする周りの努力がなければ物事はうまくいかない。そのせいで割を食うのは物事を達成できなかった有能な人間ではなく、恩恵を受けられなくなった周りの方だ。有能な人間は、ただ自分の能力がきちんと活かせる場所を探してどこかへ行けばいい。有能な人間を活かそうともしなかったその他大勢は自分たちが損をしていることも、賢い人間に見捨てられたことも分からないまま笑顔で過ごし続ける。これに気づけないが故に、衆愚は衆愚として存在する。

「広く浅く」か、「狭く深く」か

 人との繋がり方は、最終的には「狭く深く」が自分には合っている気がする。というより、深い人間関係を築けそうな人間が周りにそう多く存在しない。周りに見えるのは、正直に言って何も考えていなさそうな人間ばかりだ。

 深い関係を築くために「広く」人間と関わる試みは続けてきた。誰にでも話しかけ、(半ば無意識に)相手に合わせる仮面を作り、良好な人間関係を構築しようと努めてきた。その努力が無駄だったとは思わないけれど、それほど大きなリターンがあったとも思わない。そこまで大きな労力を投資しなくても、しっかりと観察すれば少ない労力で良い人間関係を構築することができたのではないかとも思う。

 良い人間関係とは何だろうか。自分に「良い」影響を与えてくれる人間はそう多くない。大半は当たり障りなく過ぎ去っていく人たちばかりだ。もちろん、そのような人たちにも優しく接しつづけることは大切だが、自分を削りすぎることに意味はない。「広く浅く」を手始めに、「狭く深く」を目指すやり方を意識せずとも、生きているだけで多くの人と出会い、相性の良い人間だけが勝手に残っていく。

自殺の否定

 自殺をしてはいけない理由に対する納得は、「自殺の思想史」からは得られなかった。 過去の哲学者や神話の読み解きの具体例をしっかり読み込まなかったからかもしれない。けれど、結局「自殺の思想史」から学んだのは、「自殺は他人に波及するから自殺をしてはいけない」という意見だった。

 自殺は他人に波及するから自殺をしてはいけないとする著者(ジェニファー・マイケル・ヘクト)の意見には「そもそも人間が死んではいけない理由」が含まれていないため、いまいちピンと来なかった。

 今の自分は、人は死んで然るべきものだと考えている。事実、人はいずれ死ぬ。そもそも、人が生きるのに理由はない。道端を歩く蟻が勝手に生まれて勝手に死んでいくように、人も勝手に生まれて勝手に死んでいく。

定住不全

 自分を理解してくれる人間がほしいと思いながら、求める繋がりの像を満たす人間に出会わないままでいる。もし理想的な人間が現れ、これ以上ない強固な繋がりができたと思えたら、自分がどこにいることになっても構わない。今はそう思っている。

 数年単位で、その場しのぎの人間関係を構築してきた。これまでの人間関係が全てなくなってしまったらどうなると問われても、構わないと答えられる。それほどに、自分の居場所が感じられないままでいる。 本当は安らぎを見つけて定住したいけれど、今有る人間関係をかなぐり捨てて、どこか遠く離れた地で暮らしてみるのもいいなと思う。頭の悪い人間が組織や国を動かし続け、政治も経済もシステムも生活も安定しない日本は、本当にニュートラルな視点に立ってみると選択すべきではない定住地なのかもしれない。

 今、心は比較的安定している。騒がしい場に出ず、しばらく独りでいることで落ち着ける。これが長すぎると孤独を深めすぎることになるし、バランスを取るのが難しい。人のつながりに幅広く依存することで安定した精神状態を保てるのは分かるが、それでは身動きが取れないような気がする。孤独を利点として、今有る環境を抜け出してみてもいいかもしれない。他人と同じことをしていても面白くない。周囲の大勢が「いいね」を押したくなるようなことが本当に人生を豊かにするとは限らない。むしろ、他人の視点を排除することでしかわからない面白さ、充実、見いだせる美しさがあるかもしれない。それを探してみたい。

HSS型HSP

 自分自身がHSPHSPに当てはまる部分が多いことは分かる。

 何もせずにはいられないが、何かに挑んで人との繋がりを得てはそのせいで疲れてしまう。他人に共感できるがゆえに、人を放っておいてはいられない。気になった人間に肩入れしては、その相手が期待以下であることに勝手に失望する。自分を傷つける永久機関のようにも思える。これは自分が勝手なのではなく、人の性質上仕方ないことだと割り切る他ない。

 しかしながら、割り切ったからとて他人からの共感が得られるわけでもない。自分を完全に理解してくれる人間が現れるわけでもない。苦しみを含めた自分自身を受け入れ、苦しみと戦い続ける自分を誇らしく思うような心持ちになる他ないのか?

 深く考えずして、よく観察せずして、人を信頼できる他の人間が羨ましいとさえ思うこともある。疲れる。