メタ認知による自己批判

 「そんなにメタ認知できるのは凄いね。僕もそんなふうにメタ認知ができるようになりたいよ」 と言われることがありました。

 俯瞰的な思考をすることが多い私は、よく「自分は所詮世の中から見れば小さい存在なんだ」と思っており、ともすればこのような考えが行き過ぎて悩みの種になっていたりします。しかし、私がこれまで出会ってきた人の多くは、(もしかしたら明るさを装っているだけなのかもしれませんが)こんなふうにつらく感じているようには見えませんでした。

 メタ認知は人間特有の認識能力だと聞きます。自分の行為や視点を他者の視点から捉えて自覚するこの能力は、少なくとも私自身に様々な影響を与えています。

 良い点としては、目の前の物事を見ているだけよりもずっと多くの視点を得られることが挙げられます。これを代表するのは「いただきます」だと思っています。

 「いただきます」という食前の挨拶は、目の前の食べ物を食べるという行為に付す様々な条件に思いを馳せる意味が込められています。食材を生み出してくれた自然の恵みや調理してくれた人を始めとして、食事という行為に関わる様々な物事に感謝するこの視点によって、単に食事をする行為から様々な繋がりを感じることができます。

 一方で、メタ認知は間違った方向に行き過ぎると苦しみを生みます。何をするにしても「こんなふうに思われてしまうんじゃないか」「こんなことに意味はないんじゃないか」という疑念を次々に思い浮かべてしまうのです。私は自分に強く根付いてしまったこの考え方に悩んでいます。

 例えば、ボランティアについて考えてみます。自分が良かれと思ってボランティア活動に参加する時、俯瞰的かつ批判的な視点によって私は次のような疑念を浮かべてしまいます。

  • 実は自分は「ボランティア活動をしている自分」に酔いたくて活動に参加しているんじゃないか
  • ボランティア活動に参加して得られるメリットなんて気持ちの問題だけなんじゃないか
  • 目の前のボランティア活動に参加したところで、社会全体に与える影響なんてちっぽけなものだから自分の行為に意味はないんじゃないか

 冷静に考えてみればこういった疑念は深掘りするべきものではなく、素直に自分の善意に従えば良いものだと思えます。ボランティア活動は良いものとみなすのが社会の流れだと思いますし、活動によって助けられた人がいるなら、そんな人たちは参加者を偽善者だなんて思わないでしょう。

 しかし、考えないほうがよいのだと分かっていながらも、私はこのような自己批判的視点を未だに捨てられずにいます。このような悩みを抱えながら考え続けた結果、私は自然と哲学的思考に行き着いていました。疑念に疑念を重ね、揺るがぬ本質を求めるようになりました。今もなお考え続けています。