今思う「本質」

 思考の流れを省いて結論まで飛躍してしまいますが、哲学的思考によって「本質」だと今思えることがあります。それは、物事は一つの視点からは語れないことが多く、絶対的な判断は難しいということです。

 先に述べたボランティアの例について、活動が偽善なのかそうでないのかを考えてみます。

 私は、ボランティア活動が良いことだと思って参加を検討し始めます。この時点では、行為は善意によるものと言えます。しかし、ボランティア活動に参加する意味は何なんだろうと考え始めた途端、善意に対する疑いが生じます。

 ボランティアとは、無償で人助けに参加する人のことです。金銭や時間といった目に見える形で得られるものは少なく、逆に交通費や時間などを消費することのほうが目に付きます。それでもボランティア活動を良いと思うのには、それなりの理由があるはずです。

 私が思いついた自己批判に「『ボランティア活動をしている自分』に酔いたくて活動に参加しているんじゃないか」というものがありました。ボランティア活動への参加を検討するにあたってメリットとデメリットを考えるのならば、「良いことをしている自分に酔う」ことができるのは立派なメリットと言えます。幸福感に繋がるからです。もちろん、「助ける相手が喜ぶ顔が見たいから」という純粋な善意で臨んでいる人もいると思いますが、少なからず「自分っていいことしているなぁ」と思いながら楽しんで活動に参加している人もいると思います。

 ボランティア活動に参加する心構えを良い悪いと論じたいのではありません。私が言いたいのは、メタ認知による疑念は全くもって無駄なわけではないということです。メタ認知は自分を取り巻く現実に即して新たな視点や疑念を生じさせるため、そこから生まれる考えは多少の真実を含んでいます。今回の例で言えば、自分の心ひとつに着目しても、ボランティア活動への参加が善意によるものだという思いは真実であり、また一方で偽善であるという意見も真実だということです。

 自己批判から生じる、自分自身に対する否定的な思いや自己批判そのものに意味があるのか、私は悩み続けてきました。普段このように考えない多くの人からすれば、全くもって無駄な時間を過ごしているように思われるかもしれません。多分多くの方々は口に出すことなく乗り越えることだと思いますが、備忘録がてら書き記します。